2014年5月2日金曜日

不可能を可能にする冒険的生きかた。

昔ある人が書いたものを読んでなるほどなと思ったことがある。

日本人は習慣的にタブーに囲まれた生き方をしている。

ところがインド人という人たちがいて、彼らにはタブーということがないので、いいことも悪いことも、なんでもしてしまうので、いいことも悪いことも、とにかくなんでも経験してしまう。

なので日本人の一生に比べると、二生分も三生分もいろいろなことを学んでからあの世に帰る。

これを読んで、なるほどと思いその時以来日本人の習性がわかった気がした。

日本人はといえば、とにかく悪いことが起こるのを避けるのが第一と考え、なにもしないのだ。

何もしないから、悪いことはさほど起こらないが、特に良いことも起こらない。

だから何も学ばずに、老人になり、子孫に残すのは葬式仏教の空虚なしきたりのみというお寒い現実の中に生きている。

そして亡くなった先祖は無条件に天国に行き、そこで見守っていてくれていると根拠もなしに、頑なに信じ込んでいるのだ。

とにかく安逸のみをむさぼるようにして小さな幸せのなかに生きている。

では、そのことを若い頃知った自分はどうしたかというと、これがとても複雑なのだ。

何かに挑戦したいしたい気持ちは有り、世のタブー視にとらわれずにいろいろと模索したことはあったが、取り立ててこれだという目標も見出すことなく、不良中年を経て、中高年に達してしまっている。

自分の自己分析の中に、人があまり気にしないようなことを気にする習性がある、というのがあって、これは昔読んだ性格診断だか占いの本に書かれていたのだが、全くそのとうりなのである。

そしてその習性をよいほうに使えばよく気が付くということになるはずだが、私は逆で、振り返ると、悪いほうにばかり使って来たとの思いがある。

そうするとどうなるかというと、人があまり気にしないようなことを悲観し、失敗を予感し身動きが取れなくなるのだ。

そして身動きが取れないままで、読書とかしながら思索を重ねてきてわけだが、その思索だけはすこぶる前向きで、それがあったおかげで今日まで来れたとの思いもあるのだが、まるでアクセルとブレーキを同時に踏み込んでいるような状態で、少しも前進しておらず、フラストレーションの塊と化しているのが自分の今の状態といえるのである。

ところが、以前のブログにも書いたが、そのブレーキの正体が自己の潜在意識に刷り込まれたネガティブな思いや恐れによるものであり、同時に心の持つ内制止という機能が働き、「そんなこと、できっこない。」と思い込んでしまっている状態なのだと最近気付いたのだ。

であればその否定的なブレーキを取り払うことができたら何がしたいかといったら、今日のタイトルである、「不可能を可能にする冒険的生き方」なのである。

これは、自分にはそんなことできっこないと思い続けてきたことでもある。

これを読んでいるあなたには、自分にはそんなことできっこないと思い続けていることはないだろうか。

もしあるとすればそれがあなたのなりたい本当の自分なのかもしれない。

もちろん何ごとにも適度な制動は必要だが、効き過ぎるブレーキはいらないのだ。

そして自分の脳にそのことをよく理解させ、「できないわけがない」と思い続けるようにプログラムし直してしまえば良いのだと思う。

私は、学生時代、国語だけは得意で漢字の書き取りさえ練習しておけば、テストはいつも90点以上取れていたのだが、作文となると全く何を書いてよいのかイメージがわかず、まともに人に読ませる文章など書いた経験が無かったのだが、こうして今、ブログを実名で書いてる。

これは自分にとってはひとつ不可能を可能にしたことになるのである。

そのような小さいことから、一つずつ可能にしてゆく。

そして挑戦し続けていこうと思っている。





2014年5月1日木曜日

思考停止ということについて・・・昨日の思考実験の続き

さて、昨日の思考実験の結果を一旦まとめておくと、来世があるかないかは決してはっきりと判らないという前提で考えた場合でも、問題になるのは、もしかしたら来世というものが有った場合、その来世において今世の状態よりも悪い状態に陥るということだった。

死について考えるというのは、前向きではなく、否定的な態度であるかのように取り扱われがちであるが、実際は、将来必ず訪れるであろうイベントに対して何の心構えも持ち合わせていないことのほうが限りなく否定的で、よく物事を考えようとしない後ろ向きな考えだということもはっきりしたかもしれない。

そのようなことを考えた場合、物事を前向きに考えて生きようとするのであれば、万が一にでも来世が有った場合のことを考え、そこで今世より悪い状態に落ち込まないように、いまから対策を講じながら生きるということが肝心なのではないのか。

(とまあ、大体このあたりまでが、日ごろ私が思考していることなのだが、この先は、今回このブログを書くにあたって思考実験をした結果の産物になる。)

そして、そういう生き方ができているという実感が得られれば、死に対する不安はなくなるはすである。

ここまでくると、もう、死後の自己実現である。

人生での自己実現を考えた場合、何の努力もせずにただ希望しさえすれば価値のあることが実現すると考えるのは、愚か者の考えであることは誰しも納得するところだと思う。

だから、自己実現を望む人間は願望を抱いたら、その実現に向けて努力するのだが、もう一歩踏み込んで、今世の自己実現の目標の中に、来世の自己実現の目標も組み入れてしまったら、より前向きなスーパーポジティヴな生きかたができるのではないか。

そのように考えるのは、実は合理的な理由がある。

巷にあふれる自己実現本に書かれている成功法則などは、そのほとんどが聖書に書かれている戒めから採ったものがほとんどで、その聖書は今世の生きかたに関する事もさることながら、その本筋においては主に、来世のことに照準を合わせて書かれているのだ。

人生というものを、砂上の楼閣のようなものとして危うい築き方をしたくないのであれば、来世があるものとしてとらえ、来世までも含めた自己実現を目標と考えて生きるのが、最善の策と思うのはそうゆう理由による。


2014年4月30日水曜日

思考停止ということについて

今生きている私は、やがて死の時を迎える。

いや、私だけではなくすべての人に同じことが言えるわけだが、その、人生において確実に訪れる死ということに対して、いかに対処すべきか考えたことがおありだろうか。

たぶん考えたことがない人間の方がはるかに多いのだと思う。

しかし本当にそれでよいのかはなはだ疑問なのである。

自分の生活上において、確実に起こることが判っているイベントに対して、何の考察も試みずに、何の準備もせずに、その時を迎えるということは、かなりずさんな態度である。

自分は以前からよくそのことを考えていたので、あるとき知人に、死についていかに考えるか、
問いかけをしてみたことがあったが、案の定、そういうことはその時になったら考えればいいのだと一蹴された経験がある。

私は何も葬式仏教の準備で、墓のこととかそういったことを考えなければいけないと
いいたいわけではない。

そうではなくて、死が何を意味するかということ考えずに、無防備にその時を迎えるということほど恐ろしい思考停止状態はない、といいたいのである。

死が個々の人間にとってすべての終わりを意味するのであれば、考える必要はないであろう。

むしろ考えるほうが無意味である。

ところがここで問題になるのは、終わりを意味するのかそうでないのか、はっきり証明されることはたぶんないだろうということなのである。

そう、死後に存続する世界があるのか、ないのかはっきり判らないというのが大問題なのである。

判らないから考えても仕方がないというのは、救いようのない思考停止状態だと思うのだがいかがだろうか。

死後の世界に関しては、はっきりわからない。

ということは、死後の世界がないかもしれないし、あるかもしれないということで、、どちらの可能性も否定しきれないということが大問題なのである。

であればどうしたらいいのか。

ここでは思考停止するのではなく、思考実験を重ねるというのが私の考え方なのである。

どのように考えるかというと、まず死が終わりを意味していて、死後の世界が無いとするならば、そこにはリスクも発生し得ないので、考慮の対象からはずしても良いと考える。

問題になるのは、死後の世界があった場合なのである。

なぜかと問うならば、そこにはリスクが発生しうるから。

と、ここまで考えてくると、あることに気が付く。

我々は生きる上においてリスクを排除してよりよく生きようとするものだが、リスクを排除して、よりよく死のうとするのもありなのではないか、ということである。

では、もし死後の世界があった場合に、どのようなことがリスクに成り得るかと言うと、死後に、生前より悪い状態に置かれることである。

いささか単純すぎないかとの危惧も有るが、あくまでも思考実験なのでそこはよしとする。

そして、私は死後に生前より悪い状態に放り込まれることなどは、まっぴら御免なのである。

ならばそのリスクを回避するために何らかの方策はあるのか。

ここから先は宗教の領域に入っていくことになる。

そして、生きる上においてよりよく脳を使って生きるためには私は宗教は避けて通ってはいけない分野なのだと思っている。

以上のことを、何年にもわたって考えてきた、私の経験から言わせてもらうと、このブログで思考実験したようなことをより深く考えてみたいのであれば、聖書の読書からはいることをお勧めしておきたい。

何といってもこのブログのテーマとしている、自己啓発や、自己実現の哲学などはもとはすべて聖書から発しているのだから。

いずれにしろ奥の深い問題ではある。

2014年4月29日火曜日

自己実現と潜在能力

 潜在能力というのはいまだに表に現れずに、眠ったままになっている状態の能力のことをいうのだが、たとえば身近なところで考えてみると、自転車に乗れるようになるというのは、潜在能力が開発された状態のことを言うらしい。

子供の頃、家族に補助してもらって自転車に乗る練習をして、最初はふらふらしながら危なっかしい思いをして、何度も繰り返すうちに、徐々にコツがつかめてきて、最後にやっと乗れるようになった経験はだれしもあることと思う。

自転車に乗れるようになる前の、乗れない状態のときは、その乗れるという能力がまだ開発されずに潜在しているということになるらしいのだ。

自転車に乗れない人も中にはいると思うが、その人はその能力が欠如しているのではなく、いまだに開発されていないだけなので、自転車に乗れる様になるという自己実現を目指して練習しさえすれば必ず乗れるようになると思うが、本人が、自分は練習してみたけどいっこうに乗れるようにならなかった、といって、自分にはその能力がないのだと頑なに信じ込んだとしたら、その人の自転車に乗るという潜在能力は一生開発されずに、地中に埋もれた状態で埋没して終わるのだ。

自己実現というのは、なりたい自分になる、ということだが、他のことでも全く同じことで、自己実現する人とそうではない人の違いは、願望を抱き、それが実現するまで取り組んだか、最初からあきらめたか、取り組んでも途中で投げ出してやめたかの差が結果として現れたに過ぎないということだと思う。

ところが世の中に自転車に乗れる人は掃いて捨てるほどいるのに、実人生において自己実現している人というのは、めったにお目にかからない。

いやそのような人は、コミュニティーを持っていて、私とは住む世界が違うからお目にかからないだけかも知れないが。

なぜ人生において自己実現している人がそれほど少ないのか。

それは人生における自己実現の場合は難易度がさまざまに違い、達成するために長い時間を要したりして、子供の自転車の練習のように簡単ではないということ。

要するに達成が困難だということだ。

だが困難なことは、実現した時に得られる対価もそれに比して大きいので、一生をかけて取り組む価値のあることには全力で取り組んだらいいのだが、まず挑戦している人にお目にかかったことがない。

そのように教育されていないのだ。

戦後の学校教育などは単なるサラリーマン養成所で、しかも教師自体が自己実現などしたことがないので、人にそのような価値のある生き方など教えるすべもないのだ。

だから自己の安逸のみを求める小さな幸せを後生大事にしながら、自転車に乗れない人のような埋没型の人生を送るのが日本人の主流の生きかたになっているということなのだと思う。

そして日本人はその主流から外れた生き方をタブー視する。

そしてそのタブーから踏み出す勇気がないから一生涯なにも学ばないでおえる。

そのような閉塞的な社会においては、息苦しさを感じて、生きる上においての悩みを抱えている人間のほうが実は正常だったりするのではないか、と昔から思っていたが、最近はやはりそれが正しいのだと強く思うようになった。

そのような閉塞的な生きかたをして、一生を棒に振りたくなければ、突き抜けなければならないのだ。

自分の価値観で、なりたい自分になるための行き方を目指さない限り、埋没型の人生にならざるをえない。

ところが生き方を変えるというのが、これもまたけっこう努力を要することで、それまでの習慣を意識して変えたりすると、潜在意識が抵抗して恐怖感を感じさせたりするのだ。

潜在意識とは機能的にしか働かないので、これまでの習慣において安定していて、安心のできた状態から新しい領域に踏み出そうとすると危険信号を出して警告しようとする、そのサインが恐怖感として感じられるということらしいのだが、その潜在意識というものの働きをしっかりと見極め、自分が新しい領域で、新しい生き方をしようとしていることを、しっかりと潜在意識に納得させないといつまでも恐怖感を発し続けるということなのだ。

そして自己実現のために新しい生き方を試みた時に感じる、その恐れをうまく克服しないと、その恐れが失敗を連想させ、失敗に対する恐れに化け、途中でくじける結果になるのである。

ここまで思考して、言えることは埋没型の人生を送るということは、臆病風に吹かれた人間の生き方だということになってしまうのだが、自分はそのとうりなのだと思うが、それに関してはおそらく全くの反対意見とかもあると思うので、それはそのような意見も聞いてみないとわからない。

とにかく困難を克服して自己実現しようとするときには恐れと対峙して克服すると同時に成功のイメージを自分の脳に送り込み、自分の脳に潜在能力を発揮せしめないとならないのである。

自己実現とは自分の脳をそのような状態まで高める作業なのである。

と、ここまで理解したらあとは実践有るのみなので、自分を実験台に実証実験することにしている。

2014年4月26日土曜日

積極的な心がまえ

自分は元来あまり積極的なほうではなく、小学校当時は担任の教師から親に、積極性に欠けると、はっきりと通告されたこととか有りました。

当然、本人もそのことは自覚していたわけですが、当時は何をどうしたら積極的という状態になれるのか、皆目見当もつかないので仕方有りませんでした。

周囲には積極的といわれる級友たちがいて、羨望のまなざしを注いでいたわけです。

しかし、当時の自分はどう逆立ちしてもそのようにはなれないという自信がありました。

変な話ですが理由もなく、なぜかも分からずそのように確信していました。

太宰 治の「人間失格」の主人公の幼少の時代の物語に通じるものが自分にも確かに有りました。

実際に若い頃は、私も、純文学といわれるものにトライしたことが有りましたが、太宰以外はなにも感じませんでした。

太宰 治の文学に接して衝撃を受ける人は多いと思いますが、私もかなり傾倒していた時期が有ります。

本当に美しい文章を書く作家だったと今でも思います。

その辺のことを深く掘り下げると今日のテーマから外れるのでこのくらいにしますが、その当時の消極性は確信犯だったなという感が強いです。

積極的に心のそこから楽しい思いで振舞える動機が、全く見当たらないのだからしょうがなかったともいえます。

そしてそのままシフトチェンジせずに突き進めば悲劇的な結末に至るのが世の中の常ですが、私の場合はちがいました。

積極思考になれず心のそこから物事を楽しめないという悶々とした気性の中にも、私は何者かに守られているので絶対に大丈夫だという根拠のない確信があり、その確信がやがて結実する時がやってくるのでした。

きっかけは20歳代の前半頃から徐々に顕著になるのですが、とどめはやはり30歳代で真剣に取り組み始めた聖書でした。

その中に書かれていることを全体的にとらえて把握できるようになってはじめて自分は鬱々とした状態から開放されました。

逆に言えばそこで何が語られているのか全く知らずに、それにもかかわらず世の人は安心して積極的に明るく楽しく振舞うことができているという、そのことのほうが自分にはいまだに理解しづらいです。

まあ、それはさておくとして、消極的な心の状態を経て、積極的な心持ができるようになる、という経験を通して学んだことは、今を楽しく過ごし、そして将来にわたってよりよく生きたいのであれば、積極的な心がまえは必須で、さらに自分の願望を実現したいと思うほどの人は、積極的にしているつもりでも、心の奥深いところに否定的な観念とかを隠し持っていたりすると、アクセルとブレーキを同時に踏み込むような状態に陥り、願望実現などということはいつまでたってもおぼつかないであろうということです。

ですから積極的な心がまえは大切なのです。


2014年4月25日金曜日

潜在意識ということ

 最近よく潜在意識ということを考えます。

専門家ではないので断定的なことはいえませんが、それを意識するようになって、潜在意識に対して肯定的な思念のみを送るようにして、過去に蓄積された否定的な思いやコンプレックス、トラウマのようなものは溶解して徹底的に廃棄するようなイメージで生活してみたところ、とてもよい感じが得られています。

潜在意識の刷新のようなことは、自己啓発本や成功哲学系の書籍には必ずといってよいほど取り上げられているので、何を今更と思うかもしれませんが、自己とその潜在意識とを日常の生活レベルで意識できている人はそんなに多くないと思いますが、これを読んでくれているあなたはいかがでしょうか。

私の場合は先日のブログにも書いたように、あがり症の克服がどうしても必要になって、調べた結果として潜在意識と自己催眠トレーニングというものにたどり着きました。

そしてそれを試してみたところ効き目が抜群で、自分の潜在意識というものをはっきりと認識できるようになりました。

実はこのことは自分にとってはものすごく大きな出来事だと思っているのです。

私はナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」を10年以上前に読んでいました。
この人は元祖成功哲学者みたいな人なのでその著書も定番中の定番なのですが、やはりその中で、潜在意識に対する深層自己説得の重要さをこんこんと説いています。

この本は自分が過去に読んだ本の中でもかなり重要度の高い本と思っていましたが、潜在意識ということに関してはつい最近になって上記のように意識することができるようになるまでは、分かった様でいて、実は全然分かっていなかったなと痛感しています。

だだの知識と、はっきりした認識の違いを改めて実感させられる大きな出来事なのです。

それにより、「思考は現実化する」というだけではなくて、「思考は常に現実化してしまっている」と心のそこから思うようになりました。

成功を目指す人だけの哲学なのではなく、全人類的に逃れることのできない真実だったんだと実感するようになりました。

そうなんです。
自己の思いが行動となって現れて、その自己の行動の結果としての現実が、あたりまえのこととして自分に降りかかってくるということだったんだよなやはり。
という感じなのです。

思いが違えば行動の違いとなって現れ、それが結果の違いとなって現れ、そのことにより自己の現実が規定されるということをはっきりと、自分の経験をとおして知ることができたといえばいいのでしょうか。

このことを認識したことの意味というのはかなり重要で、自分の将来の現実は、自分の今の思いで本当に変えられると実感できるように、やっとなってきたということなのです。

自分の心の奥に潜んでいる、劣等感や恐れの感情があって、それときがつがずにその思いのままの行動を続けていると、それとは気が付かずに否定的な現実が自分のものになってしまうということがはっきりとわかるようになりました。

だから肯定的な思考じゃないといけないのです。





2014年4月24日木曜日

よりよい生き方を求めて

 人は常に今ここに生きている、というのはよく言われることですが、真実そのとうりだと思います。

過去はすでに過ぎ去り記憶の中にしか存在せず、未来は文字どうりまだ実現していないので、
人が生きるのは常に今でしかないということです。

であれば、もしよりよい生き方を求めるのであれば、すべては、今をいかに充実させるかということに拠っていると言えるはずです。

であればどうしたらよいのか。

最近の私はよく感じるのですが、簡単なことで、否定的な感情をすべて消去するように心がけて、それを習慣としてしまえば、肯定的な、言い換えれば、明るく、楽しく、浮き浮きして、ワクワクしながら生きる、そんな生き方しかできないということになってしまうのです。

かく言う私も、悩みごとのの多い青春時代があり、特に若い頃はふとしたことがきっかけで気分が落ち込んだりして、気分の浮き沈みに翻弄されながら生きた時代も長かったので、思い立ったからといってそう簡単に習慣としてしまえることではないというのは百も承知です。

そうであってもそれを習慣にしてしまうことができてみると、何だそんな簡単なことだったのかというのが実感なのです。

私は一年四か月ほど前に思い立って、即日に煙草と酒を同時にやめてしまった経験が有ります。
煙草は30年間一度もやめた事がなく、飲酒も何年も欠かさず毎日飲み続けていて、まさかそんなに簡単にやめられるとは想像したことも有りませんでした。

ところが決心してやめてみたら何だこんな簡単なことだったのかという感じで、さらっとやめることができてしまったのです。

たまに病院に行くと、最近では禁煙外来とかいうのがあります。禁煙するのに病院通いをする人というのはなんと意志の弱い人たちなのだろうといつも思います。

自分にとっては否定的思考をやめるという習慣づけは禁酒禁煙の習慣づけとなんらかわりのないことで、意志の力を用いればたやすい事といった感じなのですが、これも昔から意志が強かったかというとそうともいえないのです。

やはり今のような状態になり習慣のコントロールができるようになるまでには、数々の失敗を積み重ね、苦しい経験を積み重ねています。

ただ、あきらめずに求め続けてさえいれば、やはり必ず道は開けてくるということでしょうか。