2014年4月30日水曜日

思考停止ということについて

今生きている私は、やがて死の時を迎える。

いや、私だけではなくすべての人に同じことが言えるわけだが、その、人生において確実に訪れる死ということに対して、いかに対処すべきか考えたことがおありだろうか。

たぶん考えたことがない人間の方がはるかに多いのだと思う。

しかし本当にそれでよいのかはなはだ疑問なのである。

自分の生活上において、確実に起こることが判っているイベントに対して、何の考察も試みずに、何の準備もせずに、その時を迎えるということは、かなりずさんな態度である。

自分は以前からよくそのことを考えていたので、あるとき知人に、死についていかに考えるか、
問いかけをしてみたことがあったが、案の定、そういうことはその時になったら考えればいいのだと一蹴された経験がある。

私は何も葬式仏教の準備で、墓のこととかそういったことを考えなければいけないと
いいたいわけではない。

そうではなくて、死が何を意味するかということ考えずに、無防備にその時を迎えるということほど恐ろしい思考停止状態はない、といいたいのである。

死が個々の人間にとってすべての終わりを意味するのであれば、考える必要はないであろう。

むしろ考えるほうが無意味である。

ところがここで問題になるのは、終わりを意味するのかそうでないのか、はっきり証明されることはたぶんないだろうということなのである。

そう、死後に存続する世界があるのか、ないのかはっきり判らないというのが大問題なのである。

判らないから考えても仕方がないというのは、救いようのない思考停止状態だと思うのだがいかがだろうか。

死後の世界に関しては、はっきりわからない。

ということは、死後の世界がないかもしれないし、あるかもしれないということで、、どちらの可能性も否定しきれないということが大問題なのである。

であればどうしたらいいのか。

ここでは思考停止するのではなく、思考実験を重ねるというのが私の考え方なのである。

どのように考えるかというと、まず死が終わりを意味していて、死後の世界が無いとするならば、そこにはリスクも発生し得ないので、考慮の対象からはずしても良いと考える。

問題になるのは、死後の世界があった場合なのである。

なぜかと問うならば、そこにはリスクが発生しうるから。

と、ここまで考えてくると、あることに気が付く。

我々は生きる上においてリスクを排除してよりよく生きようとするものだが、リスクを排除して、よりよく死のうとするのもありなのではないか、ということである。

では、もし死後の世界があった場合に、どのようなことがリスクに成り得るかと言うと、死後に、生前より悪い状態に置かれることである。

いささか単純すぎないかとの危惧も有るが、あくまでも思考実験なのでそこはよしとする。

そして、私は死後に生前より悪い状態に放り込まれることなどは、まっぴら御免なのである。

ならばそのリスクを回避するために何らかの方策はあるのか。

ここから先は宗教の領域に入っていくことになる。

そして、生きる上においてよりよく脳を使って生きるためには私は宗教は避けて通ってはいけない分野なのだと思っている。

以上のことを、何年にもわたって考えてきた、私の経験から言わせてもらうと、このブログで思考実験したようなことをより深く考えてみたいのであれば、聖書の読書からはいることをお勧めしておきたい。

何といってもこのブログのテーマとしている、自己啓発や、自己実現の哲学などはもとはすべて聖書から発しているのだから。

いずれにしろ奥の深い問題ではある。

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