2014年4月26日土曜日

積極的な心がまえ

自分は元来あまり積極的なほうではなく、小学校当時は担任の教師から親に、積極性に欠けると、はっきりと通告されたこととか有りました。

当然、本人もそのことは自覚していたわけですが、当時は何をどうしたら積極的という状態になれるのか、皆目見当もつかないので仕方有りませんでした。

周囲には積極的といわれる級友たちがいて、羨望のまなざしを注いでいたわけです。

しかし、当時の自分はどう逆立ちしてもそのようにはなれないという自信がありました。

変な話ですが理由もなく、なぜかも分からずそのように確信していました。

太宰 治の「人間失格」の主人公の幼少の時代の物語に通じるものが自分にも確かに有りました。

実際に若い頃は、私も、純文学といわれるものにトライしたことが有りましたが、太宰以外はなにも感じませんでした。

太宰 治の文学に接して衝撃を受ける人は多いと思いますが、私もかなり傾倒していた時期が有ります。

本当に美しい文章を書く作家だったと今でも思います。

その辺のことを深く掘り下げると今日のテーマから外れるのでこのくらいにしますが、その当時の消極性は確信犯だったなという感が強いです。

積極的に心のそこから楽しい思いで振舞える動機が、全く見当たらないのだからしょうがなかったともいえます。

そしてそのままシフトチェンジせずに突き進めば悲劇的な結末に至るのが世の中の常ですが、私の場合はちがいました。

積極思考になれず心のそこから物事を楽しめないという悶々とした気性の中にも、私は何者かに守られているので絶対に大丈夫だという根拠のない確信があり、その確信がやがて結実する時がやってくるのでした。

きっかけは20歳代の前半頃から徐々に顕著になるのですが、とどめはやはり30歳代で真剣に取り組み始めた聖書でした。

その中に書かれていることを全体的にとらえて把握できるようになってはじめて自分は鬱々とした状態から開放されました。

逆に言えばそこで何が語られているのか全く知らずに、それにもかかわらず世の人は安心して積極的に明るく楽しく振舞うことができているという、そのことのほうが自分にはいまだに理解しづらいです。

まあ、それはさておくとして、消極的な心の状態を経て、積極的な心持ができるようになる、という経験を通して学んだことは、今を楽しく過ごし、そして将来にわたってよりよく生きたいのであれば、積極的な心がまえは必須で、さらに自分の願望を実現したいと思うほどの人は、積極的にしているつもりでも、心の奥深いところに否定的な観念とかを隠し持っていたりすると、アクセルとブレーキを同時に踏み込むような状態に陥り、願望実現などということはいつまでたってもおぼつかないであろうということです。

ですから積極的な心がまえは大切なのです。


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